@玉串 2018・9・21
世界平和の祈りによって救われる必要があるのは、何故なのですか。
今回が最後なので滅びてしまうから、ということなのでしょうか?
滅びてしまうことの、何がいけないのでしょうか。
滅びてしまったら、悔いる主体もないのではないのでしょうか?
そこに救われるべき必要性、というのは果たしてあるのでしょうか????
A玉串 2018・9・21
・この世に、永遠に残るものは何も無い。
・それを得ようとする、すべての、あらゆる試みは無意味である。
・お前がなした活動は、何から何まで、完璧に不毛である。
この鉄の掟に締め上げられて、今、自分には絶望しかありません。
救いの道が完全に絶たれてしまい、喪失感に打ちひしがれています。この掟の救いのなさは、物凄く耐え難い。
非常に辛いので「救済されず、この20年で見棄てられ、滅びてゆく者」として、最期にメッセージを遺しておくことにします。
世界平和の祈りが、最後に救われる手段だというのが宇宙全史の核心となるメッセージでした。
しかし、それを取れない人間もまた、いるのです。
「世界平和の祈りを祈らない者は、ゴミでクズだから、さっさと滅べばいい」
とお思いになられますか。
本当にそう、思いますか。
いや、これは「そうだ」と言ってもらってもいい問いなんです。
振り返ってなんという虚しい人生だったか
何一つ達成できず
何一つ獲得できなかった
この無力さ
結局何もできず
何も分からないまま
ワケも分からずに糊口を凌ぐだけの生活
絶望の中
虚無に沈みゆく
孤独に
守護霊・守護神からも見棄てられて
無に沈みゆくのみ
その答えによって、ついにこの自分を完全に荼毘に付す事ができるかもしれません。
何もできない、手も足も出ない。
どうしたらよいのかも分からない。
この人生には、なんの意味もなかった
それが、最後に、自分が選んだ末路であるのです
B幻想郷 2018・9・21
世界人類が平和でありますように
日本が平和でありますように
私達の天命が完うされますように
守護霊様、守護神様、五井先生
ありがとうございます
というお祈りがありますが、
これは何も考えずにただひたすら祈るだけでも効果はあるのでしょうか?
またそれはどのような効果があるのでしょうか?
世界が平和であるとは、戦争や争いごとの完全消滅のことを指していますか?
それとも祈ることにより、「自身」が並行地球の一つ、
世界が平和である未来を選択する、そのための意図(アフォメーション)でしょうか。
それならば、世界を知る必要(大勢の人の考え、感情、制度、法律、悲惨な環境、宗教、伝統等)があり、それら全てを把握しないといけないですし、
日本が平和であるように、であれば、日本の今の現状、考え方、若者文化、大勢の人の悩み、
テレビ、ニュース、法律、伝統、あるいは海外から持ち込まれた食品・医療品等)
これらを全てとは言いませんが、多く把握する必要があり、
その上で、日本が平和でありますように、と願望を発するのが祈りというものでないでしょうか。
なぜなら、世界や日本という国も知らずに祈るのは、中身も知らずに
ただ言葉を発しているだけのように思えます。
例えば、依頼の法則が、宇宙にあったとします。
それは守護霊・守護神・五井先生からすれば、「誰からか依頼があったら動ける」というものです。
ですが、依頼を受けて、世界人類が平和でありますように、と言っても
そこで五井先生などはどう動くのですか?
仮に私がそれを望んでも、他の方々は望まず、彼らはお金持ちになるため動いたり、すごい肩書を持つため周囲と競い合います。
であれば、天命を全うする、を援助するのが限界で、日本の平和、世界平和など遠すぎると思います。
一定の人数がいれば、その人数分援助は出来ます。
しかし、その援助とは、どういう風になされるのでしょうか?
例えば、この子はまだこの段階だ、従ってこの情報を得られるよう流れを操作しよう等。
そして仮に混乱から脱却し精神が平和にいたった時、感謝が自然と起きると思います。
つまり、自己流にアレンジするなら、
「世界人類が平和で、日本が平和で、そのための自分になれるよう、お導きください。」
守護霊や守護神、五井先生などは私からは見えませんし、それは妄想になってしまうのです。
また感謝は自然と沸き起こるものであり、もし仮に世界人類が平和にと「世界の現状も知らないで」発していたら
それは曇った目で自己流の平和を押し付け、そして私が世界を平和にしているんだ、という勘違い妄想を
生み出してしまう可能性があります。
加えてそれらは偽善の心を育て、より自分を良く見せようとします。結果として、自分をよく見せようとするための
「道具」として五井先生や守護霊守護神を利用することになると思います。
世界が平和になったと勘違いしたら次はどうしますか?自分のことです。そしてそれは
金持ちを目指したり、安定した環境、人、物、あるいは病気を治す、といった自分のことです。
それらを個人の平和と勘違いし、そのために五井先生などを利用します。
病気をなおしていただけるのは、あるいは環境を整えてくださるのは、世界人類が平和であるため、
日本が平和であるため、個人が平和であるため、といった計画があるからではないのでしょうか。
世界平和の祈りは確かに見える人、ある段階までたどり着いた方、チャネリングのできる方なら
有効だとは思いますが、私やそのレベルにまでたどり着けない方にはむしろ逆効果だと思います。
ただ五井先生クラスならそんなことは百も承知で、柔軟な対応はしてくださるとは思いますが…。
もし無知のまま祈るなら、「権力と多数決・搾取と強奪の時代を終焉する 地球が決めました」の
権力抗争・多数決・搾取・強奪、その道の上を辿っていることだと同じことだとは思っております。
@とAの玉串くんは他にも似たようなご意見をずっと送って来ておられます。
Bの幻想郷くんも同じような内容ですが、お二人はちょっと違います。
基本的に同じところは「助けられるものなら助けてみなさい」という傲慢さが満ち溢れているところです。
そこは誰も干渉できませんから、答えは「好きにして下さい」ということです。
これは高級神霊全会一致のご意見です。
玉串くんは「もう消えていく」といいながらも未練がましくここに書き込んできているのは、やはり何とか「助かりたい」という一縷の望みを託そうとしているのですが、このままではどんどんエネルギーを消耗していくでしょう。
Bの幻想郷くんはキチンとここで学んでいれば理解できるはずですが、エゴが厚く見えていないのですね。
以前こういうたとえを出しました。
仏陀が怪我人の矢を抜こうとすると、その怪我人は、
「その前にこの矢は誰が放ったのか教えろ」
「そして矢尻に毒が塗ってあるか否か調べろ」
「さらにその毒がどんな毒か、解毒剤は何か教えろ」
「とにかく矢を抜くというのなら、すべて調べて、把握してからにしろ」
そういうことを延々言っているうちにその怪我人は死んでしまったというお話です。
まず矢を抜けばいいのですが、エゴが邪魔してそれが出来ないのです。
世界平和の祈りを祈ればいいのですが、
「そんな簡単なもの喋れるか」
「祈りってなんだ」
「まずその内容を把握しないと意味がない」
「世界の現状を、日本の現状をすべて把握してkらでないと意味がない」
そんなことをできる人間なんてどこにもいません。
誰も祈って下さいとお願いしたことはありません。
(かつて一度だけ世界がどうにもならない状況の時、ここの同志たちにお願いしたことがありましたが)
矢を抜かないのはあなたの自由です。
滅んでいくのもあなたの自由です。
だれもあなた達にお願いしたことなどないのです。
好きにすればいいのです。
傷をなめ合い、甘やかされて育ち、その結果社会に適合できないのは悲しい事ですが、その境涯にいつまでも甘えているのは違います。
確かに「傷をなめ合う」「甘やかされて育つ」というのは家庭の問題、社会の問題でもありますが、いつまでもそこに責任転嫁出来るのは子供に限ります。
陰始という存在は子供なのです。
妬み、嫉み、いじけて、ひねくれて、自分でも訳が分からなくなって、自らをも滅ぼしていく有様に陥っています。
世界平和の祈りは自らの責任を、自らが引き受けることが出来る人だけが祈れる祈りです。
私たちは祈りの戦士なのです
甘く見てはいけません
門戸は常に開いていますが
そんなに簡単に祈れるものではないのです
虚空蔵55(遊撃手)