関精拙画 大森曹玄文『十牛図』2008年 サンガ \2100(帯付・1983年柏樹社刊の復刊)
『禅の本』1992年 学習研究社 \525
「十牛図」とは禅宗に於ける悟りの階梯を十枚の絵に表したものです。
絵の内容は「牛」を探しに行く姿が順番に書いてあるものですが、この牛が「本来の自分」といふことです。
十枚の絵にそれぞれタイトルがついてをりますので、以下にそれを列挙してみませう(画像参照・学研『禅の本』より)。
「第一図 尋牛」牛を探し始める。
「第二図 見跡」牛の足跡を見つける。
「第三図 見牛」牛を見つける。
「第四図 得牛」牛を捕らへる。
「第五図 牧牛」牛を連れて歩く。
「第六図 騎牛帰家(きぎゅうきか)」牛にまたがって家に帰る。
「第七図 忘牛存人(ぼうぎゅうそんじん)」牛のことは忘れて家でくつろぐ。
「第八図 人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)」牛も人も忘れて消え去ってしまふ。
「第九図 返本還源(へんぽんかんげん)」根源にに立帰る。
「第十図 入店垂手(にってんすいしゅ)」日常生活に戻る。
といふことですが、一般に禅から受けるイメージは第四図「得牛」までか、第八図「人牛倶忘」まででありませう。
逆に見落とされガチなのが第五図「牧牛」、第十図「入店垂手」だと思ひます。
つまり、「牧牛」とは得た牛(つまり悟った)あといかにそれを乗りこなすか、といふことであり一般に誤解されてゐるやうに「悟ったらすべて終了」といふことを否定します。
また最後の「入店垂手」といふのはまったくの凡人として市井に還る、といふものでこれも「悟ったら聖人」といふ根強い誤解を否定するものであります。
「悟り終はれば悟りなし」といふやつで、つまりは喜怒哀楽や因果律から自由にはなれない、といふことでせう。
それぢゃァ禅の修業に何のイミがあるのかと云へば、最初からイミなんかないと宣言してゐるのが禅なのであって、どうも取り付く島がございませんのです。
何であれ、そんなことまでサラッと示唆して呉れるのが「十牛図」。
今回ご案内のものは山田無文老師のものと、関精拙老師・大森曹玄老師のもの二冊です。
何れも臨済宗天龍寺派の大物老師ばかりですから、きっと求道者であれば何かしら得るところがございませう。
まんだらけ中野店4階「大予言」では臨済・曹洞問はず禅の書籍、その他仏教書を多数取り揃へて皆様のご来店をお待ちしてをります。
(担当 山口ケン)
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