![]() 大病を患い、意識のないまま亡くなられたのは、苦しまずに逝かれたということで、不幸中の幸いでした。 私が生まれたのが1961年なので、赤塚不二夫さんというとやはり最初は大ヒット作おそ松くんですが、 その前にまかせて長太がヒットしていたことは漫画好きの知り合いから聞いて知っていました。 シエーはイヤミはヒェーと言っているつもりが出っ歯でシェーになってしまうというのは当時の子供たちの間では常識でした。 おそ松くんの週刊少年サンデー連載分は、マガジンのバカボン、やはりサンデーのレッツラゴンなどと並ぶ最高に面白い時期でした。 のちに月刊少年サンデーに移行して100ページの大作として世界名作や映画風大作、などがベースになりましたが、ストーリー重視になり、 見開き2ページ一コマの大ゴマに人物ぎっしりギャグ満載など面白いところはあったのですが、長編なのでストーリー重視になっていきました。 少し後に始まった天才バカボンの方に比重が掛かっていったようです。 その天才バカボンがマガジンからサンデーへ移ったのには驚きました。 他には手塚治虫さんのW3がマガジンからサンデーに移っていますがどちらも当時は謎でした。 週刊少年マンガ誌同時連載を達成したのも永井豪さんと赤塚さんと石森さんぐらいだったような気がします。 その後ももーれつア太郎でおそ松くん月刊サンデー版でも試みた人情話を展開しつつも レッツラゴンやぶっかれダンギャグゲリラなどありとあらゆるギャグの実験を試みていきました。 1ページ1コマのマンガや絵のかわりに字で表現するマンガとか一コマだけ球にリアルになるマンガとか、 とりみきさんが語っていましたが殆どのギャグマンガにおける実験は赤塚不二夫によってやり尽くされてしまったといっても過言ではないでしょう。 1962年から約10年ほどは赤塚不二夫時代といってもいいと思います。 ギャグマンガで10年トップにいるということは大変なことでその後出てきたギャマンガ家でもそれほど長持ちはせず、 他のジャンルに転じていったりやがて消えていったりしました。 あの時代だから長持ちしたと考えるひともいるかもしれませんが、読み返してみるとやはり天才であったと考えざるを得ません。 その後色々とおやりになっていましたが、あとは生きていてくれるだけで良かったのですが残念です。
(担当 気田)
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